柳沢吉保側室の日記〜松蔭日記〜柳沢吉保側室の日記―松蔭日記作者: 正親町町子,増淵勝一出版社/メーカー: 国研出版発売日: 1999/02/01メディア: 単行本 クリック: 13回この商品を含むブログ (3件) を見る

5代将軍、徳川綱吉に仕える松平吉保。
その側室である町子が書いた吉保周辺のできごとを綴った日記を現代語訳にしてある。
実直に務める吉保が栄え、そして綱吉没後に隠居していくまでを描く。
副題の「松蔭日記」は、松の陰から拝見した君(吉保)の様子を書いた日記という意味。
日記というより業務日誌に近いかな。
吉保や綱吉を天子のような扱いとしているのは、側室という立場もあるし、この日記が人の目に触れることが前提とされているからだろうなあ。





町子自ら、「君(吉保)のことを誉めすぎですよねー」と書きながら、





「でも、ほんとなんです。いやみに読めてしまうのは、私の筆力が拙いせいでして・・・」





もう、読者の思いを裏読みしまくり。←気遣いですね





感情的な言葉はあまり使わず、町子独自の表現や細かい心の動きはあまり書かれていないのだけど、やはり文章は人を表す。





「まあ、色々あったんだけれども、みんな知ってることだから書くのは省略する。」
「すばらいしいことばかりが続いたので忘れてしまった
「めずらしいものばかりが並んでいたのだけど、書くのはやめておく
「(吉保の長男の)結婚式は、もうほんとうにすばらしくて、すばらしくて・・・あとは省きます






めんどくさがりさんなのでしょうか?
なんだか仲良くなれそうな気がするなあ♪♪





それでも、日々のできごとを客観的に書いているので、かえって想像をかきたてる場面も多い。
吉保の周辺で、身内が立て続けて亡くなった時期には、まだ1歳にもならない姫の髪をおろさせて(仏道にはいらせて)、時の悪運を鎮めようとする。
みな悲しみにくれてるのに、やめようという人はいないわけで。




また、町子自身が吉保の子を生んだ時に使った言葉「箒木ははきぎ」は、遠くから見れば木があるけれども、近くによって見たらまぼろしだったかのように木に見えなくなってしまうというもの。
そんな木に自分を例えて「こんな私でも母である」と謙虚ながら、お子を産んだ喜びをかみしめているのが伝わってくる。
こんな高い身分で何不自由なく暮らしていても、子どもの死亡率が高い。
そんな中で、自分が生んでも「自分のもの」ではない息子が成長し、元服し、出世していくのを陰ながら見守る気持ちもにじんでいる。





そして、大地震や火事による焼失の時の人々の動きや再建の様子。





それにしても、贈り物の嵐。
ご病気といえば、お見舞いのお菓子から織物から・・・
そして、そのお返しがまた山のように。
回復祝いにお祝い返し。
訪問土産に、お帰りの手土産。(手には持ちきれない)
新築祝いに、お祝い返し。
短歌の添削依頼に贈り物をつければ、すばらしかったとご褒美が。
銀の杖やら、香木やら、刀やら、馬やら・・・
甘いものは、やっぱり貴重品だったんだね。
よく登場するみたい。
それにしても、いつそんなに用意するんだろう。
まさに、お付き合いが生活の中心にあるという感じ。
日本の贈答の慣習は、日本人の血に染みこんでいる感覚なのかもしれない。





個人的におもしろいのは、吉保の住まう武蔵野が、今現在、私が住んでいる土地であるということ。
川越方面の描写もあり。
増上寺など、今も残るものが登場するのもおもしろいよ。
駒込六義園は、吉保のものだったようで、ある日。





「あ、そういえば、私はそんな土地を持っていたっけ。」




と思い出して出かけていく。
手入れをしていない荒れ気味の六義園だけど、それなりに風情があり、その後お気に入りになっていく様子。
「山里」と呼ぶこの庭園に吉保や訪れた鶴姫(綱吉の姫)が思いをよせ、お供の者たちがはしゃぐ様子を、私が以前訪れた現代の六義園の記憶に重ねてみたり。


江戸時代は、私たちから見て十分昔なのだけど、更にその時代の町子から見た昔の感覚が書かれているのもおもしろいなあ。
文章のいたるところに古書の一文を意識した言葉が散りばめられてるしね。
吉保が、地元である甲斐の国を授けられた後に、武田信玄の133回忌の儀を行う場面では、信玄への思いが書かれている。



主君が亡くなったり、衰退すれば、仕えている者は次の君につくのではなく、役目は終了となる。
仏道にはいる者が多いのかな。
綱吉がはしかであっけなく亡くなってしまってから、強く望んだ隠居をなだめられ、やっと公職を去ることを新将軍家宣に許された後に吉保が移ったのは、かの六義園