うさぎと毒ガスの島

uiui2010-05-04

子どもの頃、海水浴に連れてきてもらった瀬戸内海に浮かぶ島だ。
名前は、 大久野島」(おおくのじま)

久し振りに訪れてみた。
広島駅から、在来線(呉線)で約2時間の忠海駅で降り、フェリーで12分の島に渡る。
特に選んだわけではなかったのに、乗った呉線は「瀬戸内マリンビュー号」という列車で、車内はまるで船みたい。


母がえらく気に入ったようで、よかった。

ちなみに、可部線の「ゆずりあい座席」のデザインが素敵だった。
こんな布が張られていては、譲らずにはいられない。

(譲ってあげたい対象の方が布の模様になっている)




瀬戸内海には、島が多く、島民や観光客のためにカーフェリーが行き来している。

広島に住んでいた頃には、なんとも思わなかった景色なのに、今では外国人と地元民の両方の気持ちを持って眺めている。
でも、広島の穏やかな海や遠景にいくつも重なる島々、海苔や牡蠣の養殖を見るとほっとするので、自分にとっての原風景になっているのだろう。


昔と違って、島は、 「うさぎと毒ガス」がウリになっていた。
日中戦争の頃、この島では毒ガスが製造されていた。
島は、周囲をグルリと歩いても1時間くらいの大きさなのだけど、ここに製造所・貯蔵庫・砲台・発電所などが点在し、その跡が残っている。
しばらくは島全体が毒による汚染の心配がされたけれど、なんとか浄化され、平和を訴える役割をおったのだ。

小規模ながら、毒ガス資料館もある。

ここは、


毒ガス貯蔵庫跡。


製造過程で、多くの工員(女性や青少年も)が漏れたガスの被害で命を落とした。
私は、毒ガスについてちょっと誤解をしていたみたい。
ガスを浴びたら、その場でのみ苦しいだけかと。
ガスは、浴びたその後もずっと身体を蝕み、結膜炎・肋膜炎・肺炎・気管支炎、そしてガン。
重疾患を抱えさせる。
被害者の写真があった。
どこかで見たことがあると思ったら、原爆で焼け爛れた人に似ているのだ。
顔や身体が水ぶくれのようになって、原型をとどめないような姿になっている。
毒が汗などによって溶けて、身体に染み込んだりもする。
イラン・イラク戦争でも化学兵器が使われた。
この資料館に、兵士や子どもの目をそむけたくなるような姿が残されていた。



この大久野島で製造された毒ガス(主にイペリット)は、どこでどのように使われたかは不明なのだそうだ。
製造されていたこと自体が、旧日本軍関係者以外には知らされず、1984年になってやっと、日本の化学戦についての資料が報道されたのだとか。
それ以来、研究が進み、製造がこの大久野島、充填が曽根(北九州市)、運用と訓練は習志野という構図も明らかになったらしい。


こんな過去を背負っている島である一方で、ウサギの島とも言われている。
すずめや鳩に出会うような感覚で、ウサギがそこらへんにピョンピョン。木陰で昼寝。

毒ガスの実験に使われていたウサギが殖えたのだという説もあるようだけど、自然繁殖の説も。

サイクリングやグランドゴルフ、バドミントン、釣具・・・
レンタル品や施設でのんびりしながら、傍らにウサギというプチ天国。



帰路は、三原経由で山陽本線
線路に貨物列車やコンテナが多く見られるのも、広島らしい風景。


実家では、母が大事にしているメダカたちが待っている。

このメダカには、「カタミちゃん」という名前がついている。
かわいい名前をつけたものだと思っていたけど、母が大事なお友達からいただいたメダカが殖えたもので、そのお友達は亡くなってしまったのだそうだ。
だから、




「形見」ちゃん。





ひー。



最初は、水を替える時に、1匹がスルリと逃げて下水溝に入ってしまったりすると、母はかわいそうなことをしたと泣いていた。
今では、「うまく川に出るのよ!」と旅立ったメダカを励ましている。



母は、まだまだ元気だ。
安心した。



ひょんなきっかけで話をする機会ができた友人と過ごしたり、なかなか実のある休暇。
人ごみは苦手だけど、フラワーフェスティバルもちょっとのぞいてみよう。




そうそう。
広島に移動する直前に、見たかった東京国際ユースサッカー大会U-14を観戦する時間が少しだけとれた。
まだ少年だけど、すごいサッカーをするので、昨年に引き続きの観戦。

カイロvsサンパウロ
サンパウロから今年来たチームは、昨年と雰囲気が違うなあと思ったら、やはり違うチームで、コリンチャンスだった。
ロナウドが所属するチームだね。
国際色豊かな屋台村で買ったワッフルをいただきながら、観戦。