父さんのからだを返して〜父親を骨格標本にされたエスキモーの少年

父さんのからだを返して―父親を骨格標本にされたエスキモーの少年

父さんのからだを返して―父親を骨格標本にされたエスキモーの少年

お天気がよいので、上野まで足をのばし、ついでに国立博物館に行ったら、私の父親の骨が標本になって飾られていた・・・・


もし、そんなことがあったと言っても誰も信じないだろう。
だけど、エスキモーの少年ミニックに、実際に起きた出来事だったのだ。
1900年前後のグリーンランドアメリカでの実話だよ。


グリーンランドには、アメリカからまだ見ぬ北極点を目指す探検家ピアリーたちが訪れていた。
探検家たちは、タバコ、ビスケット、チョコレートや銃・・・そんな雑貨をエスキモーたちに与える代わりに、珍獣たちの牙や皮、そして隕石をアメリカに持ち帰って大儲けをしていた。
なぜ、何度も挑戦する探検が「次こそはきっと」の結果と、素人にも陳腐な事が分かる探検失敗の言い訳で終わっていたのか?に対する本当の答えは、金儲けだった。
北極を植民地のように扱うアメリカ人と、アメリカ人の持ち込む品に依存するエスキモー。
当時は、北極点の発見よりも、実は「行くこと」に意義があったのだ。
科学的解明の趣旨もたしかにあって、それ故、ミニック達エスキモー7名は、アメリカに連れてこられた。
民族交流ではなく、「研究材料」として「採集」されてきたのだ。


慣れない高い気温と湿度に、次々に病に倒れたエスキモーたち。
父と一緒に連れてこられたミニックは、父が亡くなった時、エスキモーの慣習にならった葬儀を行ってもらった。



そう信じた。


実際は、解剖のために必要だった父親の遺体を騒ぎを起こさずに手に入れるための、アメリカ自然史博物館の演技葬儀だったのだ。
埋葬されたと思っていた父親に、博物館で標本という姿で発見し(しかも名前が明記されている)、「ずっと昔に連れてこられた同姓同名のエスキモーだ」と思おうとする甲斐も虚しく、アメリカ人たちがキリストを崇めるその裏で、文明という武器を振りかざしながら行っていた残酷な仕打ちを思い知ることになる。


博物館の権威が移り、世の中がエスキモーに興味を持たなくなったとき、ミニックは権利も尊厳も放置され、すさんだ青春時代を迎える。
それでも、再度マスコミに注目されて、「ミニックの要求に応じず、父親の骨を返さない博物館」というタイトルで新聞に載るようになったミニックに手を差し伸べる者達が出てきたことによって、なんとかグリーンランドに戻れる日がやってきた。
ピアリーらが用意した書類には、「銃」「食料」「毛皮」「橇」「橇の部品」・・・など30品目以上の生活必需品をミニックに渡してから、グリーンランドへ下船させたと書かれているが、それに書かれたミニックのサインもアメリカの詐欺的行為によるものだった。
実際に軽装のミニックが船から下りた時に持っていたのは、アメリカで過ごすような衣類だけだったのだ。


グリーンランドに戻ったミニックは、そこでハッピーエンドとはいかない。
忘れていたエスキモー語を再度身につけ、狩猟に秀でた才を発揮したけれど、ミニックは、やはり「アメリカで育ったエスキモー」だった。
心の居場所がない孤独を生涯背負うことになる。


文明人を背負って訪れた者達(特に宣教師)は、その土地の意味ある慣習を踏みにじって、自分たちに倣わそうとする傾向があったらしく、特に「野蛮」であるとする性的慣習を嘆くのだそうだ。グリーンランドの宣教師も同じ。
エスキモーの文化では、他人の奥さんを1日または長期にわたって借りるということを日常的にするのだけど、これを劣った民族の証としていた。
(でも、探検家ピアリーは、このシステムを自ら利用していた)
アメリカに連れてこられたエスキモーも、知人のアメリカ人に早速「その白人の奥さんを貸してくれ」と申し入れたが、その場で一蹴されたというエピソードがあった。
お互いの夫同士が同意の上でなく、勝手に他人の奥さんに手を出すと「悪いこと」になるらしいけど。



ミニックは、エスキモーとしての結婚にも失敗している。
なぜなら、彼には、「教養」が身についていたから。




英語を使いこなし、猟に秀でているミニックは、北に訪れる白人たちの強力なサポーターとなるが、悲惨なアメリカ生活で十分に形成されなかったミニックの人格は、「世界は敵」と自分にすりこんでいた。
北に戻れば、退屈でアメリカが恋しくなり、アメリカに渡れば、北の気候が懐かしい。
自我をどこに置くこともできずに、ミニックが生涯を閉じた場所はどこであったか。



文明の名の下に渦巻いていた欲望と非人道の大きさに唖然とさせられる本。
でも、アメリカ人のこともミニックのことも責める気持ちがもてない気がする。
そして、北極点論争には、いまだに決着がついていないそうだ。