ドルジェル伯の舞踏会

ドルジェル伯の舞踏会―現代日本の翻訳 (講談社文芸文庫)

ドルジェル伯の舞踏会―現代日本の翻訳 (講談社文芸文庫)

作品の初めに、ジャン・コクトーがラディゲによせた文章が載せられている。
20歳で急死したラディゲを「奇跡的なその生涯を終えて、死ぬと知らずに死んだ」としている。
そんなラディゲの遺作を、堀口大學がどう訳すのか。
ストーリーは、フランス上流階級の夫婦の奥さんと、夫妻と仲良しである若者が気持ちを通じてしまうことによる苦悩。
SNSTwitter等で発信しなれている現代の人がドルジェル夫人と「気持ちの共有」するのは難しいかも。
でもね、ラディゲは、文頭に書いちゃってます。




ドルジェル伯爵夫人のような心の動き方は、果たして、時代おくれだろうか?




無垢な気持ちが、悪徳との駆け引きや理屈から逸脱した化学変化をするその様子。
化学変化後は、もう元には戻らないよね。



主要とはいえない登場人物の説明にまで何ページも割いていて、最初は主人公が誰か分からなかった。
そして、短文がずっと続く。まるで、長い長い詩のようだ。
しかも1つの文が短いのに単語や言い回しが複雑で、1つの単語を読み落とすと、場面が理解できなくなる。
そんなわけで、登場人物にあまりリアリティがなく、距離を感じてしまう。




堀口大學氏は、実は翻訳が苦手?




と思ってしまうほど。
だけど、読み進めていくと、直訳じみたその文章でないといけないのかもと思えてくる。
例えば、あれ以上に口語的にしてしまうと、どれだけ多くの場面を支える要素がこばれ落ちてしまうことか、というのをだんだん感じ始める。
それでもいい加減、展開の遅さにしびれを切らしてきた頃、ドルジェル夫人は急速に変化し始める。
若者フランソワとは、言葉のない理解と誤解を意識的・無意識的に繰り返す。
貞節を破る苦悩を告白するのだけど、この相手がまた信じがたい人選だ。
そして、最後に・・・というか、ここが最後なのか!!と、現代の攻撃的なストーリーに慣れてしまうと感じるんだろなー。



三島由紀夫でさえも完全にイカレてしまったこの翻訳。
2・3つ他にも翻訳があるらしいけど、どんな感じなんだろう。