国盗り物語(前編:斎藤道三)

国盗り物語 前編 斎藤道三

国盗り物語 前編 斎藤道三

下克上真っ盛りの戦国時代とはいえ、古めかしい常識やモラルから思い切り逸脱した悪人。
「自分の存在こそが常識である」みたいな厚顔ぶり。
「あいつはアホだから、国主の地位から追放されて当然。俺が国主になるべき。」という「俺様が正義」を巧妙な手口で次々と実行していく。
物語の中には、ナレーション的な著者の司馬遼太郎の言葉が散りばめられているのだけれど、「自分は人に好かれたいと思いながら生きてきた。善人をやってきた。だからこそ、自分の意思に自由で、野望に奔放なこの極悪人を書いてみたかった」という一言があったのが印象的。
「極悪人」の意味は、既成概念や自己保身に全く囚われず、自分にとっての正義を容赦なく実現していくということ。
不思議な憧れの気持ちを抱かせてくれるキャラクターだ。



斎藤道三は、織田信長の舅。
前編は、その斎藤道三の上り坂の半生。



超自己チューかというと、本質的な「義」には忠実で約束は守る。
農民などの下人が飢饉で困れば、備えていた食糧を分配する。
ほとんどが専売市場となっていたものを楽市楽座を始めて、だれでも商売ができるようにする。
愛した女性は、生涯をかけて愛す。
愛し方がやはり自分ルールで個性的なのだけど。
求愛場面、性描写も散りばめられているのだけれど、女性の立場としては、「やれやれ・・・」とやや呆れる思いだ。
道三の生きる力に、いつの間にか引き寄せられてしまっている感じ。
そんな強引さも受け入れてしまえるなら、こんなに愛し甲斐のある男性はいないかもしれない。



強さと仁義を持ち合わせていると、強さと仁義を持っている人間が集まってくる。
歴史物語だけど、史実を武勇伝という部品で繋ぎ合わせているというより、「どんな人間にも人生は50年しかない(戦国時代なので短い)。それをどう存分に生きるか」という人生哲学の物語かな。
成功ばかりではない。
100%野心できていた道三が、歳を重ねて変化していく様子に、実はこの物語の意味があるのかなとも思う。
本で読めば数時間で終わるこの物語も、道三が50年かけて、じゅくじゅくと実らせたものなのだ。
その実が後半でどう落ちるのか、楽しみだ。



寺を飛び出した乞食の身分から始まる。
その時点ですでに、お金を払って、高貴な家柄の家系図に自分を記載させていたことからも、その場しのぎでない、壮大な計画を持っていることが分かる。 
かといって、ただの詐欺師・策士ではない。
舞・謡・歌・・・といった教養、天文学建築学経営学・・・あらゆる学問に通じている。
身の程知らずな夢想家ではない。
出世魚のように名前がどんどん変わっていき、その都度、大きな権力を得ていっている。
血縁者でも地位を得るためなら理由をつけ、騙し、殺してしまう戦国時代。
敵のスパイが城下に忍び込んでいる。
病気の見舞いに行けば、相手は仮病で、命を落とすのが見舞いに行った自分だったりする。
そんな時代の中で、周到な計画と粘り強さで頂点をめざす。