法隆寺を支えた木

法隆寺を支えた木 (NHKブックス)

法隆寺を支えた木 (NHKブックス)

明治の初めまで、木綿と木の中で暮らしてきた日本人。
「日本人くらい木の好きな民族は少ない」という文で始まるこの本は、日本人がいかに木と知恵比べをしながら、寄り添ってきたかを民俗学・科学・歴史・海外との比較などの視点で説明する。


宮大工が一人前になるには、かなりの年数がかかる。
それは、木との阿吽の呼吸ができるようになるまでの時間だ。
木は、なんの抵抗もせず、10年100年1000年と根を張った土地の気候や土などの環境を受け入れていくから、その土地のくせが結集したような存在なのだ。



塔組みは、木組み
木組みは、木のくせ組み
木のくせ組みは、人組み
人組みは、人の心組み



木は、切って、組めば形になるものではない。
くせを読み取れなければ、時間が経つにつれ、ねじれたり割れたりし、作ったものは壊れてしまう。
だから、宮大工と建物は、夫婦(めおと)のようにお互いに寄り添わなくてはならない。



だけど、すごい。
見事に寄り添って建てられた時、樹齢1300年で切られた木が、根を張っていなくても、更に数百年を建物の一部になりながら生きることができるなんて。
新しい木と1300年経っている法隆寺の木はどちらが強いかと聞かれたら、新しい木と思えるけれど、なんと違うのだ。
木は切り倒されてから200〜300年かけて、曲げ強さや高度がじわじわとあがって、元よりも2割くらいも強くなるのだそうだ。
その後、また弱くなっていくので、現在の法隆寺の木と新木は同じくらいの強さなのですって。
ひょー。



法隆寺をはじめ、他の寺なども例に挙げ、飛鳥時代にも遡って、日本人と木の歴史を検証する。
山奥から、建設用の木を切り出す時に川に流す方法がある。
これは、単にラクだからではないんだね。
水に入れて、長い時間かけて運び出す間に、木のくせが落ち着き、質が整うのだそうだ。
昔の人はこんなことを学んで実行していた。
自分の人生が100年にも満たないのに、数百年かけて育った木を使い、自分が死んだ後にも残る建物を考えた。時間の尺度が現在とかなり違うね。
現代では、そんな学びを無視して、童話「三匹のこぶた」に出てくるような弱い家を作る。



「アテにする」という言葉がある。
木のアテとは、樹木が伸び方のバランスをとりながら成長したことにより、年輪の弧の幅が均一になっていない部分のこと。
力バランスをとりながら、ひずんだ荷重を支えて耐えているところだから、硬くて強い。加工しにくい上に狂いやすい部分でもあるらしい。
「支えて耐える」ということから、「アテにする」という言葉の「アテ」は木のアテからきてるのかなと想像する。
(すみません、ちゃんと調べていません)




東大寺は、大仏殿だけでも、主要大柱が口径1.06m以上、長さ30.3m前後の木を84本も使用していた。
当時、どこからどのようにしてそれだけの木を運び込んだのかはいまだに不明とのこと。
10年近くかけて、壮大な材料・物資を集めて造り上げた東大寺の完成を迎えた人々の感動はどんなものだったのかな。
平清盛によって焼かれた後に後白河法皇が再建を決めた時は、質の合う木の数が揃わないから、なんと山口県から木を運び出したのだそうだ。
でも、現在では、建物と息の合ったそれだけの数の木を用意することは無理。
どんなに技術が発達した今でも、全てを元通りに修復することはできないのだ。



宮大工が寺を作っていく様は、現代の組織作りにも通じるところがあるんじゃないかな。
マニュアルと小手先の技術で作ったり、アウトソーシングしたりで組み立てた組織は弱い気がする。
組織は、しっかりと経験を重ねた、しかも組織のクセを知っている人間が、関わる人や作業・事業を組ませていかないと脆い。
そんな気がする。