意味がなければスイングはない

意味がなければスイングはない (文春文庫)

意味がなければスイングはない (文春文庫)

まず最初にお断りしますが、トップ画像の表紙と私が読んだ本の表紙は違っています。
同じ表紙の選択がなかったので、とりあえずこれでアップしてしまいました。



さて、あまりちゃんと聞いたことがない音楽を「文章で聴く」というのは、なかなか難しいもの。
村上春樹が選んだ10人の生み出す音楽は、文章にするとどんな味がするのだろう。
タイトルが、デューク・エリントンの名曲「スイングがなければ意味はない」のもじりであることさえ知らなかった私だけれど、優れた音楽を成り立たせてる「何か」を、自らの能力の限界まで言葉というツールで追い詰めるという村上春樹の作業をなぞってみることにした。

目次はこんな感じ。
シダー・ウォルトン
 強靭な文体を持ったマイナー・ポエト
ブライアン・ウィルソン
 南カルフォルニア神話の喪失と再生
シューベルト「ピアノ・ソナタ第十七番ニ長調」D850
 ソフトな混沌の今日性
スタン・ゲッツの闇の時代1953-54
ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリ
ゼルキンルービンシュタイン
 二人のピアニスト
ウィントン・マルサリスの音楽はなぜ(どのように)退屈なのか?
スガシカオの柔らかなカオス
・日曜日の朝のフランシス・プーランク
・国民詩人としてのウディー・ガスリー


私の場合、「あぁ、あの音楽ね」とイメージがちゃんと湧くのが、このうち半分。
スタン・ゲッツはベスト盤しか持っていなかったし、ルービンシュタインはピンとこないので、まずはTSUTAYAで借りて聴いてみた。

ゲッツ/ジルベルト

ゲッツ/ジルベルト

[rakuten:book:11693415:detail]

TSUTAYAにないものもあった。
ぼちぼち読んでいるところで、ちょうどこの本を貸してくれた友人の日記を読んだ。
私の自分勝手な位置づけとしては、この友人は私にとって一番、著者の村上春樹に近い人で、この日の日記も音楽を味わう気分について書いたものだった。
本の内容と日記の感性がリンクしている気がして、俄然本を読む意欲があがった。

音楽なんて「好み」といってしまえばそれまでだけど、その音楽がセールスとして成功していることと自分の「好み」が一致していないことがままあるのは明らかだ。
村上さんは、市場や世情を無視することなく、だけどあくまでも自分の目線で音楽を分解(あえて分析とはいわないでおきます)している。
それは、村上さん自身を解剖するような作業なのだろう。
選んだ音楽への賞賛ばかりではない。
読んでるうちに、「だから、キミはダメなんだよぅ」みたいな、息子をいさめつつも、愛情は捨てられないような家族愛に近い感情まで伝わってくる。
地味なのに、人の心に届いてしまう持ち味について語る場面もそうだし、薬漬けのミュージシャンについて描写する場面もそう。
また、それぞれの音楽職人たちの生き方やユニットへの関わり方にも踏み込んで、作品からにじみ出る人間性について、文字に変換する作業も試みている。
CDやライヴでたまたま聴いた音楽にも、必ず背景や生い立ちがあるんだよね。
音楽は、工業製品じゃないんだ。有機物。



依頼されて書く記事やコメントとは違って、著者が常日頃から感じていた、自分というオリジナルと音楽というオリジナルが合致したときにしか生まれない感覚を、普段いちいち人に話す機会のない感性を描いているのだけど、読者にしてみれば「うおーっ、それなのよー!!」という共感が渦巻く箇所が随所にあるんじゃないかな。




ブライアン・ウィルソンが「サーフズ・アップ」について語る言葉が書かれていて、「ボーカルが弱くて、自分の声が気に入らない。」と言いながらも「でもね、そこにはハートがあるんだ」と。
そういうのは、聴く側にも伝わってしまうのかー。




シューベルトでは、同じソナタなのに、弾く人によって違う表情となることについて。




決して容易な道を選ばないゼルキンと、生まれながらのナチュラルなピアニストであるルービンシュタインを比較しながらのくだりはなかなかおもしろかったなー。
ゼルキンは、「演奏時にいつも立派なピアノが用意されるとは限らない」と、家にはわざと悪いピアノを置いて毎日何時間も練習したとか。
一方、ルービンシュタインは、母親と娘の両方と同時にお付き合いをしてしまう上に、「不道徳をしているつもりはない。これが当然の流れだったのだ」と開き直る(本人は開き直っているつもりもない)ような自然児なのだ。




ウィントン・マルサリスのくだりのうちの2ページ分には、「退屈」という言葉が10個も出てくる。
そんな描写の後で、彼の音楽が悪いわけではないと書かれてもねぇ。
どうしてマルサリスの音楽は、スリリングでいられないのか。そして、それなのにどうして目が離せないのか。
ふと気づくと、マルサリスを聴いてみたくなる読者の私がいたりする。




朝にしか作曲活動をしないプーランク
村上さんは、その事実を知る前から、プーランクの音楽が日曜日の朝の空気に本当にしっくりと溶け込んでいると感じていたそうだ。
このプーランクは、村上さんいわく、「サティーよりも音楽の格としてはずっと上だと思う」とのこと。
「音楽の格」って、なんだろう。
なんとなくわかるような気がするけれど・・・
音楽理論をきちんとふまえていて、ルール違反がなく、古典に忠実ということ?
この作曲家の音楽は、擬古性と革新性、テキストの晦渋とテクスチャーの滑らかさという二律背反性についての決断を演奏する者に絶え間なく突きつけるのだそうだ。
特殊性と孤立性を希求しつつ、その一方で総合化・相対化をも求める。
大変高度な選択を求められるとのこと。
おもしろいね。
しかも、それなのに、マイナーな作曲家なのだ。
「私は人の声が好きなのだ」というプーランクの歌曲では、歌手に不自然な声を出させないし、超絶な技巧を要求しない。
モーツァルトが管楽器を扱ったかのように、プーランクは優しく愛を込めて、人の声を扱うのだそうだ。
いいねえ。
そして、村上さんの表現がほんとにいいねえ。




風采はあがらないし、身なりも汚いのにモテ男だったウディー・ガスリー。
出演していたラジオ局の秘書の半分が彼にノックダウン(死語かな・・・)とも言われるそうだ。
放浪し、家族を省みない社会的失格者でありながら、彼が築いたものは「音楽にかかわるための精神的支柱」。
これを理論として繰り広げるのでなく、身をもって実現したということらしい。
分裂的な言動も多かったようだけれど、その背景にも興味がある。
そして、音楽の作り方がすごいんだよ。
演奏のほとんどが「1回限り」で、歌い終われば、端からどんどん忘れていったそうだ。
「僕の歌うたくさんの歌は、結局1つの歌にすぎないんだ」という言葉から、自己を表現するための1つ1つの歌でありながら、歌うこと自体に意味があったからこそ、ずっと音楽が生き続けているんだろな。
一発屋の歌謡曲と違うところ。



貸してくれた友人へ。
おもしろい本をありがとう。