バカの壁

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

私がノーベル賞をとれないのは、努力が足りないからではありません。
努力をすれば、中学生にスイスイ教えることができるくらいには理解できるようになるのかもしれないけれど、どんなに努力をしても博士にはなれない。
それは、どんなにがんばっても越えられないバカの壁があるから。
その壁にぶつかるまでの距離は、みんなそれぞれ違っていて、同じ人でもカテゴリーによって、すごく長かったり、すぐに壁にぶち当たったりする。



結局、人は、自分のノーミソにフィットすることしか理解できない。




世界で起きている宗教に基づく争いから、小さな日常でのぎくしゃくまでを想定しつつ考えてみても、「頑張ります!」はよいけれど、そのがんばりは、実は無駄なのではありませんか?



ありきたりな言い方をすれば、「世の中に絶対的に正しいものはない」ということで、それでもどんなに外見がそれぞれ違っても「犬は犬」「バラはバラ」として統一した認識ができるというからくり。
そんな視点を基に、著者が独り言のように語ったものを編集者の人が文章にしたという本。
実は、私はあまり読まない類の本なのだけど、著者が「読者のみなさんの意見が私と違っている事を期待している」と言っている点が、著者と対談しているかのようで楽しい。




本の中であげられている例で、もし自分が「あと半年の命だ」と宣告されたら、いつも見ている桜や景色が違って見えるというケース。
そして、宣告される前に自分がどのように桜や景色を見ていたかを思い出すことができない。
それは、景色が変わったのではなく、自分が変わったにすぎないということ。
これは、私にもよく分かるなあ。



TVでは、「この前言った事と違う」とよく責められている人を見かける。
「人は変わるんだから、言う事が変わって当たり前。だから、何を言ったって、あまり重くとらないでよ。」という発言者側の言葉の軽さに著者は気を止めている。
「武士に二言はない」だった昔、武士の口が重くかったのは、別に格好をつけていたからではない。
うっかりしたことを口にしたら、命に関わっていたからだ。
「言葉」がただの「情報」になりつつあるのではないかと著者は指摘している。



物事を「自分」というフィルターを意識しながら、多面体として見つめているところに共感を感じます。