カプラー医師の奇妙な事件

カプラー医師の奇妙な事件―殺人者になった医師

カプラー医師の奇妙な事件―殺人者になった医師


「精神鑑定」
なぜか日常的になってしまった言葉。

精神を病んでいても、善悪の判断と自己コントロールは可能か?
精神を病んでいても、病んでいる自分を隠し、周囲の目を欺くことができるか?
精神を病んでいなくても、理由なく、人を殺すことはできるか?
精神を病んでいなくても、性格異常なら、殺人罪に問われないのか?




彼の病名は?





それとも、罪を逃れるために、精神病を装っている?





軽いサスペンスかと思ったら、重い重い・・・
しかも、実話






1990年4月、ジョギング中の男性を車でひき殺し、同時に女性に重症を負わせて逮捕された麻酔専門医カプラー。
路上には、ブレーキを踏んだ跡などない。
その事件よりも前の1980年には、致死量の麻酔薬を打って患者を心拍停止にさせる。
1985年には、患者の人工呼吸器を故意にはずした疑いで起訴される。
抗うことのできない「声」に命じられて、やったことだと言う。



こんな怖い医師に、医療現場に立たれては困ると誰もが考えると思うのだけど、なんと。
この期間、カプラー医師は、50箇所以上の勤務先の病院を変えながらも、ずっと医師を続けている。
しかも、夫の病気を確信しているはずの妻は、1日に4回も病院に電話をかけて、カプラー医師に異常がないか確認しながら、周囲には病状をひた隠しにした。
致死量の麻酔薬を打ったことに対しても、





「たいしたことではありません。」






と妻は答える。
事件を起こす度に病気になったと言って、夫を自宅に籠もらせ、しばらくするとまた職場に復帰させていたのだ。
そして、異常な言動を目の前にし、精神病を確信しながら彼を放置した病院の同僚たちの中には、




「医師なんて、もともと正常な人なんていないものです」




という発言も。


一番の悲劇は、幼少時の虐待的家庭環境とそこから生じた自己否定や虚飾・・・・そんなものではなくて、彼を本当に理解し、助けてあげる人がいなかったことじゃないかな。


著者は、カプラー医師に殺された人の友人だ。
その友人も著者も医者。
取材拒否どころか、本の執筆の中止を求めてくるカプラー医師の家族は、この本に封じ込めたかった彼の核心が書かれてしまう予感があったからかも。
でも、友人を殺されたという怒りをぶつけた内容では、決して、ない。
それどころか、驚くほどにカプラーと自分の共通点に気付いてしまう著者なのだ。





後半は、「精神鑑定」を元にした裁判のやりとりがずっと続く。
肉体的精神的暴力によって歪んだ人格と精神は、法的罰という「圧力」を与えることで、更正されるだろうか?
・・・などなど、読んでいるこちらが、煙にまかれるような、不安定な気持ちになりそう。