グレート・ギャツビー

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

この作品の日本語訳は、野崎孝版(1957年+改版)、橋本福夫版(1974年)、大貫三版(1989年)、村上春樹版(2006年)と4つもあるよ。
今回読んだのは、村上さん訳。
彼自身、「今更自分が訳す必要があるのかと問われると窮す」というようなことを言っています。
だけど、この問いにとどまらず、村上さんのこの翻訳への想いというのがすごい!!
還暦になったら、自分の中での最高作品3つのうちの1つであるギャツビーを訳すのだという長い年月の決意。
そして、還暦を待たずして、訳すことになった経緯。
私は、この作品自身と同じくらい、村上さんの作品への想い(後記として、かなりのボリュームで書かれている)にオドロキです。
「原作が光で、翻訳は影」ではなく、翻訳もやっぱり光なんだよね。
この後記、1つのエッセイのような重みのある文章でした。
(以前読んだ「翻訳家の書斎」という本を思い出しました)
作品自体を味わうということでは、良いことではないのかもしれないけど、この後記を読んで、作品の印象がやや変わってしまったのは事実。


実はこの作品の翻訳を読んだのは、2回目で、最初に読んだのは、野崎さんの訳。10年以上も前じゃないかな。
野崎さんの本の表紙には、1974年のリメイク版映画に出演したロバート・レッドフォードミア・ファローの場面がついていて、私は単純に映画の原作を読んでみようという軽い気持ちで手に取ったはず。
(1926年、1949年、1974年、2001年に映画化)

よく覚えていないけど、その時の感想は、映画(私が見たのも1974年版)でさえ強い印象でなかったギャツビーと共に、デイジーの存在も弱くなっているような感じがあったかな。
デイジーに対する「なにやってんの、こらぁ!」みたいな気持ちが私にあって、「見てられんよぅ、ギャツビ〜」という単純な視線が、文字になったギャツビーの印象をもっと平坦にしてしまったのかも。


今回、村上さんの訳を読むきっかけになったのは、よしてるさんの書かれていた感想を読んだこと。
よしてるさんの感想、10数年前の私と全然ちがうじゃん!
どーゆーこと!?←私の読書量と感性が低い証拠か


なるべく、よしてるさんの感想に流されないように読もうと思いつつも、「村上さんの訳」ということを意識してしまうので、いっそのこと、野崎さんの訳と比べる気持ちで読んでしまおうと決意。


大体、翻訳書というものは、私の知識が足りないためか、日本語としては意味が分かっても、理解できなかったりイメージがつかめない部分があって、それでも文章は容赦なく先へ進んでいくので、ゴクリとその不明な部分を丸呑みして次へ読み進めるということをやってしまうことがあります。
だけど、村上さんの訳では、ほとんどそういうことがありませんでした。



後半になってくると、台詞が少なくなってきます。
その台詞と台詞の合間の空気を埋めるには、野崎さんの方は英語の訳に忠実すぎるのかなと感じます。直訳に近い響きがして、空気が埋めきれていない。
大変生意気な表現ですみません。
こういう場面になると、情景描写が人物に変わって訴える役をしていくわけだけど、やっぱり情景と情景が切れちゃうと・・・・。
表現自体は、野崎さんの方が好き!という箇所もあるんだけどな。
実は、私が一番悲しかったのは、ギャツビーとデイジーの心象を描いた部分ではなくて、マートルの場面。
その場面も村上さんの訳を読んで、「あ!そういうこと!?」という解釈につながったりしたんだよね。


10年以上の歳月を経て、もう一度読んだ「ギャツビー」では、「憂い」というおまけ付で、どの登場人物の人生も許せるような私です。(横柄な言い方だけど)
悲しくても、すっきりさわやか!という結末も世の中にはあるけれど、この作品には、悲しみよりも手に負えない憂いを背負って生きてる人間を感じたかな。
自覚の差はあったとしても。
そして、私だって、その一人なんだろなぁって思った。

フィッツジェラルドの人生がこの作品と少なからずかぶっている部分にも注目ですね。
時を越えて、同じ作品を読んでみるって、なかなかおもしろい!