明治のサーカス芸人はなぜロシアに消えたのか

岡山で生まれた木下サーカス等日本のサーカスは、海を越えてロシアをあちこち巡業していた。
(このサーカスの最初の名は「木下アームストロングサーカス」!!)
ロシアではサーカスは大人気の興行だったけど、引けを取らないレベルの芸や日本独特の演技で現地の観客を魅了したらしい。
「箱に入った少年を箱の外からナイフで刺す」はカラクリなしで、少年は勘でナイフを避けていたとか。
「ハラキリショー」(切腹の様子)で流れる血はもちろんカラクリだけど、観客を震撼させた。
ロシア全土で活躍していた日本芸人を集結した「日本帝室サーカスヤマダ」は、興行収益を期待したロシア人によって作られた。
そんなサーカス文化でロシアに渡った芸人たちは、日露戦争第一次世界大戦ロシア革命スターリンの大粛清に飲み込まれる。
なんとか日本に戻った者、地方でひっそり息を潜めていた者、ロシア人と結婚しロシアのサーカス団に雇われた者もいる。
今となっては、旅券発行の記録が残っていることもあるけど、存在さえ証明できない者もいる。
イシヤマ、シマダはどこへ消えたのか。
ヤマネさんは、日本に帰るために日本人であることを日本大使館で証明しなくてはならない時、かの時代では出生記録もなく、日本の「かっぽれ」を踊って見せたことで帰国の旅券を手に入れることができたとのこと。
スターリン時代には自分の身を守るために近所や親戚が「あいつはスパイだ」と偽りの密告をすることが多発し、現地に残って電気技師をしていたヤマサキも逮捕後戻ることはなかった。
こうしてスパイとして逮捕された日本人芸人の子ども達は「スパイの子」として社会から冷たい待遇を受けたのだとか。
いじめにあったり、サーカスに入っても給料が上がらないとか。
シマダの子どもたちは、この冷遇に体当たりするつもりで、究極のサーカス技をした。
額に7mの竿を乗せ、その先にはやはり1人が倒立をし、竿を乗せている者がそのまま梯子を登っていくという信じられない技。
現代でも考えられないほどの究極技。
残された妻(ロシア人)と子どもを見つけ出したりと、コンタクトをとり、歴史に埋もれていった団員たちの軌跡を辿る。
そして、国境も戦争も越えて、自由を貫いたサーカス芸人たちの生き方が見えてくる。