足湯のサンタクロース

uiui2011-11-20

生まれて初めて四国に上陸した。愛媛県松山市
ほら、都市伝説がある松山ですよ。
「一般家庭の蛇口から出るのは、水ではなく、ポンジュースだ」という。



さすがに一般家庭の蛇口からは出ないけど、松山空港には


ポンジュース蛇口」



が設置されている。



松山空港HPより>
大好評につき「噂の蛇口」が再登場!! 【毎月第3日曜日にポンジュース蛇口を設置中】




そういえば、泊まったホテルの朝食も「オレンジジュース」ではなく、「ポンジュース」だった。




母と私は、広島港からのんびりフェリーに乗ることにした。2時間半。(スーパージェットなら1時間)
久し振りの瀬戸内海にほっとする。
穏やかな海は、陽の光を波で跳ね返さずに、水面に乗せてる感じなの。
ポコポコと浮かぶ島々の間に行きかう船。
カキや海苔の養殖。


フェリーは途中、呉港に寄る。
戦艦大和も建造した軍港だったこの港には、今でも海上自衛隊の施設や造船関係がある。
沖に潜水艦もいた。
大和ミュージアムができてからは観光客もぐんと増えたんじゃないかな。



ちなみに、その昔、初めて潜水艦を見た母は、



クジラがいる!!



とはしゃいだそうだ。




松山では、広島と同じように路面電車が日常的に使われているけど、観光客用に「坊ちゃん電車」も走ってる。
バスには「マドンナバス」があるらしい。



道後温泉駅アーケードには土産物屋が並んでいるのに、あちこちの八百屋の柿に目を奪われる母。
たしかに柿の種類が多い。しかも大きい。
渋柿もよく売られているから、干し柿作りも一般的なのかな?
でも、私も旅に出ると、土産物屋より地元のスーパーを覗く方が好きかも。
血筋か。




日本最古(文献に残っているものでは)と言われる道後温泉は、聖徳太子も訪れたとされる3000年の歴史。
これが道後温泉本館」。昔のスーパー銭湯的存在。100年使われてきた公衆浴場。

入浴はしなかったけど、建物は当時、ギヤマンも使った洋館として話題になったそうだ。
夏目漱石もお気に入りの湯。
「坊ちゃん」の主人公が湯船で泳いだ時の張り紙にちなんだ「坊っちゃん泳ぐべからず」の札があるそうな。


「からくり時計」の隣に足湯があり、もうすぐ繁忙期を迎えるであろう



サンタさんが来てた。




有名な「からくり時計」は、思っていたより凝っていた。
マジンガーZガンダムに萌えた方なら、ちょっとときめいちゃうのではないかしら。
窓が開いて、人形が出てくるだけでなく、全体の様相が変貌するんだね。

(通常)


(動いてる時)




水口酒造にきたつ蔵部
に立ち寄る。

道後ビールとゆずサイダーを購入。
旅先で重たい柿を買う母と、重たい瓶製品を買う娘のトライアスロン的道中。

お土産だって、こんなに大きい坊ちゃん団子入り。

売店に殻ごと塩がまぶしてあるゆで卵が山盛りになって売られているのを何回か見かけたけど、松山ならでは?





私にとってのサブメインは松山城。(トップ画像)

熊本城の荘厳さとは違って、親しみやすい風情。
日本の城を見ると、いつも惚れ惚れしてしまうのが石垣。
全体像が視界に入りきらないような大きなものを設計どおりに造り上げていく当時の測量技術、しかも優美な曲線をセメントも使わずに生み出す。



そこで、母は言う。



「○○藩××万石」の「××万石」は、石垣の石の数のことだと思ってた。





母には、まだまだ敵わないと思う。
脱力したら、お腹がすく。
6歳〜18歳まで瀬戸内に住んだけど、初めて見たよ、こんな「鯛めし」。
ダシ汁にウズラの生卵が入っていて、そこに鯛の刺身を入れて混ぜる。
それをご飯にかけて食べる。
鯛の甘みと卵の双方のトロリ感が、刺身のプリッとした歯ごたえによって引き締められる。
簡単にできるのに、思いつかないなあ、こんなメニュー。




そうそう。
愛媛の車のナンバープレートの字体には2種類あるんだね。
通常の「愛媛」もあるけど、デフォルメされた形式もあるみたい。「練馬」ナンバーの「練」みたいにね。
調べてみると、このデフォルメ型が登場した時期のプレートが鉄製で、画数が多くて水がたまりやすいと、錆びてしまう。
そこで文字の線にも微妙に傾斜をつけて、水がたまりにくくしたデフォルメ型が登場したそうだ。
また、「愛知」ナンバーと間違えないようにするというのも理由だとか。



萬翠荘
は、大正11年に旧松山藩主の子孫にあたる久松 定謨伯爵が、別邸として建てたものらしい。
フランス生活が長かった伯爵の純フランス風の建物。
社交場だったとのこと。





すぐそばに坂の上の雲ミュージアムがある。
実は私は本もドラマも見ていない。
ところが意外にも母が反応!



うちの家系は海軍が主流でして、母の両親やその兄弟は、身内とはいえ上下関係の厳しい海軍の階級による交際をし、その奥方たちのお付き合いも同様に縛られていたとか。
フランスまで行ってえらくなった兄君に対し、呉から出られなかった弟(の奥方)はずっと頭が上がらず、戦争が終わってもそんな関係をずっと引きずってるとか。
母の家庭は、満州で過ごしていたので、そんなしがらみとは別世界だったけど、親戚の大人たちの重苦しい雰囲気を少女だった母は感じ取っていたのだそうだ。
皇族が訪れれば頭を下げたり、とにかく階級社会で自由がなかったから、あんな時代が良かったなんてまったく思わない、と。
TVなどで激動の時代をドラマチックに描いて「かっこいい」なんて騒ぐ気が知れない、と。




とにかく母語録が増えて満足な旅でした。




追記:母は、シアトルを訪れた際、「時差ぼけは大丈夫?」と現地で聞かれたのに対し、「いつもボケているから、問題ない」と答え、相手を困惑させたそうだ。