補陀落渡海記

補陀落(ほだらく)寺では、特に掟ではないのだが、寺の住職が61歳になると、補陀落浄土への旅に出るのが、しきたりのようになっていた。
これを海辺で見送るのは、村の大イベントでもある。



一見、楽しげに聞えるこの旅は、




中から開けられない箱に入れられたまま、小舟に乗せられ、南方の海へ流される



というもの。




殺人じゃないですかっ!!



ここ何代かは、61歳の11月というのが、なんとなく慣わしとなっていて、現在、寺の住職である金光坊は、こころ穏やかでない。
とうとう、自分も渡海することになってしまい、身の回りの世話をする僧に「今日が出発の日か?」と毎日聞いてしまうのだ。





ある日、いつものように「今日が出発の日か?」と尋ねると、答えはいつもと違って「そうです」と。
いよいよ、「その日」がやってきたのである。
偉人であっても、実は心の奥底に俗人が残っており、全く死への心の整理ができていない様子を描く。(それは、著者のその時の状況と重なっているのかもしれない)




今さら私が言う必要はないのだけれど、短編小説は「短いから軽い」のではありません。
短いから、「鋭い」のです。



他の短編として、「姥捨」も。
この小説では、「親を捨てる」「子に捨てられる」という部分にだけでなく、親子以外も含む肉親同士の共通点に焦点が当てられていて、はっとする。
でも、井上靖さんがこの小説を書いてすぐに、深沢七郎が「楢山節考」という小説で姥捨のテーマを書いており、こちらはぐんと直接的にテーマに切り込んでいたらしい。
井上さんは、この小説を読みながら、何度も本を伏せ、「やられた。こんな風に書かれては敵わない」と思ったそうだ。




「小磐梯」は、火山噴火の直前に、偶然にその土地に訪れてしまった客人たちと地元の人たちを描く。
鮮やかな風景描写や情緒ある旅人同士のやりとり・・・・これがかえって、自然の脅威の恐ろしさを伝えてくる。



「道」は、何気ない他人(動物を含めて)の習慣。
そこに、どんな意味や理由があるかなんて、本人以外には分からない。
だけど、ふとしたことをきっかけに、「何気なさ」に疑いがかかる。
実は、その何気なさに、その人の人生を象徴するような理由が潜んでいるのではないか?



他に、「波紋」「雷雨」「グウドル氏の手袋」「満月」「鬼の話」。