この歳で初めて

こんな内容を書いてよいものかどうか・・・
いやな気分になったり、悲しいことを思い出したりする方もいらっしゃると思うので。



でも、人生初の感慨を記録しておきたく。





先日、初めて、もう生きていない人を見ました。





幼い頃、私をかわいがってくれたおばあちゃんが亡くなった時、対面したはずですが、記憶にありません。
お葬式やお通夜に参列したことはもちろんあるし、骨を拾った事もあります。
友人のお嬢さんの小さすぎる棺に姿を見ずとも打ちひしがれたこともあります。
でも、棺の中のご遺体に対面したのは、幸か不幸か初めてだったのです。






ご近所の方のお葬式でね。
亡くなったご本人とはほとんどお付き合いはなかったのですが、ご家族とは言葉を交わすこともあり、娘達も私の知らないところでお世話になっていることがあったと思います。
そんなわけで、どちらかといえば、礼儀の範囲で参列したといえるのかもしれません。
だから、まさか「顔を見てやってください」と棺の窓を開けてくださるとは思わず、心構えもできておらず。





唐突で、しかも身内の死でもなく・・・体と心に微震が訪れているような感覚で、呼吸のないお姿にお目にかかったのでした。
怖いという気持ちはもちろんありませんでしたが、実は一番不安だったのが「そうか、死ってこんなものか」という妙に淡々した寒い心境で終わるという自分であったらどうしようということであったので、その方の人生を感じながら自然に死を受け入れられた自分にほっとしました。
現在、私は献体登録をしているので、「なるほど、こういう姿で数年保存されるのだな」と、自分を眺めているような不思議な感覚も。
(現在、献体登録者は年々増え、何年も順番待ちの後、お役に立てる状況だそうです)






仏様は、5年間も入院生活を送られていたとのことで(それも私は知りませんでした)、その間、「生きる事への執着がとても強くて、看病する側の方が見ていてつらい状況だった」というのは息子さんの弁です。
細かいことは分かりませんが、家族の死が、一家の生活に大きな転換を与える事は、こんなに穏やかに死を受け止めている場合においても同じです。





若いお坊さんは、すごいアウディに乗って、火葬場へ向かっていました。
私の実家のお寺でもそうだったなあ。
だからといって、お坊さんが責められる理由はないのだけど、仏教の世界も昔からすると随分変化したのだなと思ったり。
余談ですが、最近ではお坊さん不足で、お寺にずっといる住職さんがおらず、派遣登録しているお坊さんを必要に応じて差し向けるということもあるそうです。






さて帰宅して、玄関で「誰かー、お塩お願い〜」と家の中に声をかけたら、3号が台所から塩の壺を持って走ってきました・・・





「いやいや、お清めの塩だよ」と渡したら、「なるほど!」と言いつつ、背中にぶちまけられました。
私は節分の鬼か?





娘1号は、大学の実習で献体されたご遺体にすでに接しているので、私の先輩。
(しかも、彼女は唯一参列したお葬式がイスラム教式で、私はこれも未体験)
2号は、幼児期にほんの数日入院した体験が今でもトラウマになっているところがあるので、人の死は強い衝撃を与えるかも。
3号は、私と似ている感覚かもしれないな。




たくさんの死に出会ってこられた方には、なにを幼稚なことを今さら言っているのかと笑われてしまいそうですが、肉体の変化というハード面、人生というソフト面から色々なことを感じたのでメモしてみました。
初めて対面した亡骸と見送る雰囲気が、穏やかなものであったことに感謝しなくてはならないのかもしれませんね。