東京裁判における通訳 

東京裁判における通訳

東京裁判における通訳

以前読んだ「私は貝になりたい」(脚本)からの興味で読んでみた。
戦争自体に言及しているのではなく、東京裁判ならではの通訳のしくみと在米日系二世たちの恵まれない立場という視点で研究した内容。
実際の裁判の様子を脚本のように書き記している部分もあって、いかに困難な作業だったかが伝わってくる。
東條英機の証言場面も出てくるよ。




ナチス戦争犯罪を裁いたニュルンベルグ裁判は、英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語の同時通訳が行われ、多言語でしかも、続けてそのシステムが利用された世界初の裁判だったそうだ。
たしか映画にもそういう場面があったなぁ。
東京裁判では、基本的に英語と日本語なのだけど、同時通訳ではなく、通訳者が訳したものをその場で「モニター」と呼ばれる人が内容が間違っていないか確認・訂正していたそうだ。
そこに、言語としての誤りと同時に感情による歪曲がないかをフィルターにかけるためだ。
だから、通訳作業は、


発言者→通訳→モニター→発言者→通訳→モニター・・・



その間に誤訳におせっかい訳や順番飛ばしや・・・
言葉の1つ1つに自分の元上司などの命がかかっている場合があるのはニュルンベルグ裁判と同じ。
内輪の人なら内輪なりに、外部なら外部なりの裏切りや復讐にいつでも利用されてしまう現場なのだ。
歴史がここで変わることもありえたはずだね。
一方で、通訳もモニターも彼らを使う裁判関係者も全員がほとんど素人なので、お互いがお互いの苦労を慮って、手順などを考慮するという協力体勢があったそうだ。





米軍に雇われた在米日系二世たちが務めたモニター役は、理解されにくい苦労も多かったようだ。
アメリカでも日本でも迫害されるし、アメリカの語学兵として参戦してたら、ばったり日本人の親戚に出会ってしまったりとか。
モニターとしては、日本語が実はあまり得意でない人もいたりする。
自分のスキルの低さをごまかすような行動をとっていた思われるフシもあったらしい。
ひー。
モニターや通訳のプロフィールページまであるよ。
その人がどのように言語を習得したか、東京裁判前は何をやっていたかまで書いてある。
恩師が被告人になっていたというモニターのイタミさんは、鹿児島弁の暗号を解読したことで有名。




翻訳や通訳が、ただ「英語堪能」と違う点として、原文の意味や本意を正確に伝えるスキルが求められることだと思う。
この裁判でも、英語に比べて、ちっとも直接的な言語でない日本語という差異が災いすることがあったようだ。
英語でドカンとストレートな質問を受けても、日本人は、ワビサビ遠まわし表現や間(ま)を加えてしまい、結果的に「核心を回避」していると思われてしまう。
それを通訳者がまた一生懸命に直接的回答に戻して伝えると。
どんどん真実から遠のきそうで、こわいね。





判決文の翻訳も大変な作業だったらしい。
3ヶ月も要して、30万語に及ぶ判決文の翻訳をしたのだけど、45名の翻訳者と30名のタイピスト・速記者たちは、外部に判決内容が漏れることを防ぐため、東京・芝白金のハットリ・ハウスから作業中は離れる事を許されなかったそうだ。




通訳の視点では、あまり研究されることがなかった東京裁判だけど、紀元前3000年のエジプト王朝の墓石には、「通訳者の監督者」という肩書きが彫られているそうだ。
また、1529年から1630年にかけてのスペインでは、アメリカ大陸で働く通訳者の料金・労働時間・倫理規定・罰則などを定めた法律が次々と制定されていたらしい。
江戸時代のオランダ通詞は、厳しく統制されていて、定められた20数家出身の男子だけしかなれず、その中での階級もあったとのこと。
バイリンガルな通訳者の権力や不実への牽制が偲ばれるね。