落語家はなぜ噺を忘れないのか

戦後最年少となる22歳で真打に昇進した柳家花緑さんが、落語家について自らをモデルにして語る。
高座にあがるまでのこと、あがっている時に考えていること、そして降りてからのこと。
人間国宝ともなった師匠の五代目林家小さんは、実の祖父でもあるそうで、その微妙な人間関係で感じたこと。
芸人がここまで書いちゃっていいのかしらと思うほど。
でもね、読者のウケ狙いで書かれてる暴露本的なものではないのです。
小さな本ですが、落語へのレスペクトに溢れた1冊だよ。



例えば、花緑さんなら、145本もある持ちネタを「どうやって覚え、そして忘れないのか?」
落語家には、数回聞いただけで覚えてしまう方もいれば、全部原稿に書き取って、一字一句を繰り返し覚えるという方もいるそうだ。
しかも、ネタにはご本人なりのカテゴリーができていて、これがかなり多角的な分け方でおもしろい。
寄席で話すネタは直前に決めることも多いのね。
演目プログラムがあらかじめ決められていない寄席や落語会では、もちろん大体は決めておくけれども、自分の前の落語家がそれを話してしまった時や同じような系統の噺をしてしまった時、または直前に話されたネタがお客にウケて、自分の噺が負けそうな時。
本番直前に、ネタを変更するそうだ。
だから、「いつでもすぐに」話せるネタがいくつか必要なんだね。
そして、練習すれば話せるネタ、まだまだ噺として仕込みが足りないネタ・・・




「いかにして、噺に命を吹き込むか」では、花緑さんが噺を自分のものにしていく過程と苦労が書かれていて、まさに裏話。
方法は色々あっても、そこに必ず付随するのが、数百年続く落語へのレスペクトだ。
師匠たちへの尊敬はもちろん、マニュアルなどない「伝承」というものに対する誇りと義務があるように感じた。
ギャグを散りばめて、笑いで「ウケさせる」のではなく、じっくり噺の内容とその作りの良さを伝えることで、観客の心に染み入らせる。
それができるのが、落語家の価値だと。
だから「ウケる」のは、笑い話とは限らないのだ。



技術として不可欠な「間のとり方」や演技、そして「リアリティ」より「らしさ」の大切さなど、なるほど!と膝を打つエピソードが盛りだくさん。
師匠だけでなく、ほかの噺家の兄さんたちとの関わりや助言もおもしろい。






花緑さんは、自分の事をこう評します。


落語は江戸の庶民を描くから、「粋」を重んじるが、自分はその逆である「野暮」な落語家だと。
林家一門ではみんな粋なのに、私だけがどうも野暮だ。こんな本まで書いちゃってね。
だけど、みんな元々野暮だから、粋を目指そうとするのではないかな。




芸術家然としていないやわらかい口調で、書かれています。
こちらも「なるほど、それで?」と合いの手を打ちたくなるよ。
さすが噺家さん。
落語初心者の私も足を運んでみたくなりました。