白蓮れんれん

白蓮れんれん (中公文庫)

白蓮れんれん (中公文庫)

銀座で「柳原白蓮展」をやっていた。
ついに行きそびれてしまったけれど、「白蓮事件」の主人公として名高い「恋をつらぬいた女」の軌跡に興味を持った。
「筑紫の女王」と呼ばれた実在の人物なのだ。
実は、私はあまり見ないけど、恋愛ものの小説・映画・舞台・・・・は数知れない。
みんな、そんなにも恋や愛に憧れているのに、小説のような、映画のような、舞台のような現実がたくさん存在しないのはどうしてかな。



柳原あき子は、天皇の従姉妹という高貴な女性だ。
結婚するにも、いちいち承認を得ないとできない身分。
時は、明治時代〜昭和初期。
10代での親の決めた結婚に失敗し、今度こそ幸をとのぞんで嫁いだのは、筑紫の炭鉱で財を成した伊藤伝右衛門の元だった。
ところが、いざ嫁いでみると、女好きの伝右衛門の家系には、聞いてもいない女が堂々と家庭で構えてるわ、養子の話が出ている子供が実はとっくに籍にはいってるわ、女中は妾でもあるわ、まかせてもらえると思っていた女学校の夢は破れるわ・・・・散々なスタートとなる。
夫に触れられるのがいやでたまらず、自ら夫のための妾を選んで自宅へ連れ込み、自らは、短歌の才能を花開かせていく。
高貴な出と美しさの一方で、不幸な結婚という陰を持つことで、日本中のカリスマ的女性となり、当時の流行女性誌婦人公論」などに常に登場するほどとなる。
その人生を「筑紫の女王」という新聞連載にされたり、菊池寛に小説にされたりと、短歌の功績と共に話題に事欠かない存在となってしまうのだ。
既婚なのに、恋の歌が多いことに言及されると、「歌の中では、なにを想像しようと、自由ですもの」とはぐらかすが、そこには常に本物の想いが隠されていた。





メールはもちろん、新幹線もなく、東京にいる恋人と会うのも数ヶ月に一度だ。
その代わり、手紙は毎日。
全ての始まりは、




「コンゲツウチニソチヘユキマス」




という電報だった。
この電報を含め、700通にわたる全ての恋文をあき子も龍介も保管していて、門外不出となっていたこれらの書簡を龍介の家族が見せてくれたからこそ、この本が書かれたといえるだろう。




華族は、子供が生まれても、すぐに引き離されて乳母に育てられるため、あき子自身、最初の結婚で生まれた男の子に対し、母性を感じることもなく過ごしてきた。
しかし、次に身ごもった想いはどうであったか。




この本の最後の1ページに、この白蓮を伝説の女にした理由がある。
離縁状を新聞に掲載までされた伝右衛門の心情は、多くは書かれていない彼の行動から測り知られる。
多くの人が貫かれた恋や愛に憧れたり、羨ましく思うのは、もし条件が揃ったとしても、決して自分にできないからかもしれないな。
まだ貫き途中の、あまりに情熱的なだれかの恋に対しては、冷ややかな視線さえ投げるだろう。
実際に貫けた人というのは、人間としての迷いがないのかもしれないね。
だから、羨ましい。
私も、可憐な容姿の白蓮の中に元々マグマのように存在していた熱さが、どんどん彼女自身を覆っていくかのような変化に共鳴するような思いを持ったよ。
貫かれる愛は、実は感情の高ぶりや若さだけでは、不可能なのだろね。
それが、最後の1ページで分かる気がしたよ。




林真理子さんは、なんとなく触手が伸びなかった作家だけど、実際に読んでみると、淡々と整然と描写することで、かえってウェットなものをうまく伝えているように感じた。(この本が実話に基づいているせいかも)
ともすれば、女のドロドロ感がもっと出そうな場面も、距離感を持って書いてくれていることで、読者が正確に読み取ろうとする気持ちになれるような気がするよ。