滑り込みフェルメール 「牛乳を注ぐ女とオランダ風俗画展」

uiui2007-12-17


ふと気がつくと、フェルメール展の開催終了の前日。
しかも日曜日。
混んでるだろなぁ。1時間待ちくらいかな。
webでリアルタイム混雑状況をチェックすると、






10時過ぎで「入場制限はありませんが、混雑しています」
10時半頃で「入場制限はありませんが、大変混雑しています」



だった。




スイッチ・オン♪
人混み苦手だけど、行くぞー。





あれ?
国立新美術館
上野だと思ってた。
期せずして、話題の新名所に行くことになった。
到着した11時半で、「入場制限10分待ち」。




でも「ダリ」(上野)の時ほどの混雑はない。
あの時は、竹馬に乗ってまわりたいと思ったほど、人ごみで絵が見えなかった。
国立新美術館は、館内での鑑賞客の動線が、ふいっと途切れる部分が数箇所あり、更に各部屋の区切りがゆるやかにズレていることが混雑が緩和されている理由の1つかな。
                 



肖像画」は、画家に作られた枠より外を感じられない、画家の前に立った時点で始まって終わる静止画だけれど、オランダの風俗画たちは、鑑賞者の視点を意識的に移動させ、最後に自分の見せたいものをみせるという鑑賞者の行動を促す魔性まで持ち合わせている。戯曲の一幕に近い感じ。
特に光の加減にその技を託してるね。



この時代のオランダ絵画は、「だまし絵」のような素質があるので、迷わず音声ガイドを借りることにした。
見ている絵は、素朴な生活の一場面であるけれど、描かれているものたちは、宗教的・風刺的・時代背景的な意味を隠し持ち、含み笑いをしてるよ。
聖書が主題となっている場面をカンヴァスの奥に小さく描き、画面前面には庶民の生活をドーンと描いたものもある。
宗教と実生活のバランスを表した風刺。:連作「聖書の主題のある台所と市場の場面」(ヤーコプ・マータム画)



また、こんな隠喩も。




床にいる猫=淫靡: 「猫の朝食」(ハブリエル・メツー画)
台所の花瓶の高価な花=身分の高い男性からの贈り物(なんだっけ?)
花瓶から落ちた枯れた花=続かない恋(上と同じ絵)
腕や胸元をはだけて熱心に金物をみがきながら微笑む女性: 「金物を磨く女」(ヤン・ハーフィクスゾーン・ステーン画)には、表面的な美徳と女性の下心が。





「愚かな者には分からないよ」と挑戦しているかのようだ。




そんな謎ときの世界。



今回の目玉であるフェルメール「牛乳を注ぐ女」は、かなり研究されているので、新しい情報ばかりではなかったけれど、あらためて赤外線やX線によって分析された、カンヴァスの奥に塗りこめられた事実に驚く。





その時、隣にいた女性が言った。
「余計なお世話よねえ?」





確かに、フェルメールにとっては迷惑な話かも。
描いてた時の経過や、何度も描き直したところなんか見つけないでくれ!!ってね。





レンブラントにしても、「オランダの絵=暗い」という印象が強かったけど、まだ電気がなかったんだものねー。
画家が陰気だったわけじゃない。(よね?)
電気の明るさを知らない時代。
その分、陽の光への感度がすごい。
ろうそくの観察がすごい。
ものすごい。
それらを現代の蛍光灯の光の中で見ても、すごい。




光と影ではっきり明暗を分けているのは、物乞いの楽隊親子とそれを受け入れている裕福な親子が玄関先でやりとりをしている絵だ。
「楽師たち」(ヤーコプ・オホテルフェルト画)だっけ?





当時の楽器を集めているところでは、おそらく「牛乳を注ぐ女」がいる部屋の隣の部屋のイメージで設定したと思われ、コーディネーターの遊び心が楽しい。
フェルメールの絵には、楽器や音楽性のあるものがよく描かれているのに、遺品には1つも楽器がなかったとのこと。
楽器は弾けなかった疑惑浮上。





ほんとに余計なお世話。





手法的にも構成的にも緻密な計算を重ねて描かれた絵は、フェルメール
43歳という短い人生で35作品しか残されていない。




「鰊売りの女」(ハブリエル・メツー画)
を見たとき、昔、アムステルダムに立ち寄って、屋台の鰊の甘酢漬けを買って食べたのを思い出したよ。
あの時、人気だと言っていた明石焼きのドーナツヴァージョンみたいなタベモノはなんていったっけなぁ。