教育のプロが語る 「できる子ども」は環境で決まる


大体、育児書・教育書はあまり読まないんです。
「〜しなさい」と書いてあって、それを実行したとしても、やっぱり子供と育児をする人が楽しくなくちゃ何も実らないと考えているから。
でも、久しぶりに北野先生の本を読んでみました。
「環境」=「お膳立て」じゃないよなあ。用意してあげる環境があるとすれば、なんだろう?と思ったから。
新しい本なので、現場レポートとしてはおもしろいかもしれません。


最近は、読売新聞の教育ルネサンスの最新教育現場レポートがなかなかおもしろくて読んでるけど、育児も教育も最終的には「その子に合ったもの」を模索するしかないと思っています。
とかいって、そんなの一生分かるはずないとも思っています。
親だからといって、その子のことがなんでも分かるわけないし。
一生懸命その子を理解しようとしていくことで多分育児は終わってしまうにちがいありません。
「教育」→「教え育む」なんて、なんだか大人からの一方的な言葉にも感じられたり。
あ、そんな屁理屈こねてたら、何も進みませんね。



「できる子」の意味も時代とともにどんどん変わってきていて、現在は、よくよく聞いてみると「今の経済で成功する人材作り」にたどり着くことも多いのかな。
それは、「できる」=「受験の解答用紙を模範解答で埋めること」からもう一歩進んできている感触もあって、子供たちが生きる事への幅広さとしぶとさを身につけてくれるといいなあと願っている今日この頃です。(私も身につけたいよー)



自分の中に命が宿ったと知った時、生まれてくるその子の健康を祈りました。
多くの親がそうなのではないかと思います。
それを思い出すと、こういった教育書の内容を読んだ時、「子供を育てようとすると、どんどん色んな想いが膨らんで、欲張りになっていくものだなあ」と、我ながら呆れてしまいます。(笑)



話はどんどん脱線していきます。すみません。
「教育」なんて話していても、親になりたいとは特に思っていなかった人もいるし、親になっても「子供は苦手」と思ってる人もいっぱいいます。
やる気満々の親が、自分にとっての理想の親像に近付きたいと思っていても、やっぱりなれる親にしかなれないし。
親=完璧な大人じゃないのだから、教育論っていうのはやっぱりどこかアヤシイ。
ビジネス論とは訳が違うよ。
一部だけが本物の、ウェディングケーキみたいなものかな。
とにかく作らないと、話が進まない・・・みたいな。



知人は仕事をとてもがんばってきたためか、子供を産んでも、仕事みたいに神経質に育児をしてしまいそうで産みたくない、と言う。



他の知人は、綿密に人生設計をした上で、家族計画もたて、授かった。
育児の計画もばっちりだ。



また他の知人は子供が授からないけど、パートナーと深い絆を育てていて、時にはお互いが子供になって甘えることがゆるされる。(親をやっていると、甘えることが下手になっちゃうこともあるのだ)



私に子供がいなかったら、どんな人生を歩んでいたかな。
その時、パートナーがいたならば、お互いを尊敬して、自分のことも大事にして、色んなアンテナのばして生き生きと過ごしているだろうか?
「子供がいたら、どんな人生だろう?」って、考えているんだろうな、きっと。
母性の豊かな女性に子供が授からない場合、とても不自然で不安定な心境になるのかもしれない。
そこへ周囲からのプレッシャーなんてあったら、どうしのいでいくのだろう。



「子供ほしくない」というのが、愛情が少ないことには決してならないと思う一方で、子供が実際に授かるかどうかを別としても、「子供がいたらいいね」という想いをパートナーが持ってくれたら、すごくうれしいものですね。
あんまりうれしい上にもともと持ってる母性が背中を押すものだから、「自分は母親に向いているか?」なんてクドいこと考えずに女性は、長い育児街道に突入できるのかもしれません。



世界中の子供たちが、パートナーに祝福されて生まれて、多くの人の愛情をいっぱいもらって育ってほしいなあ。
それだけで、とりあえずその子は「幸せ」になれそうな気がします。
「幸せ」を感じる受け皿を持てるというか。



なんだか、私の育児論はとても原始的。



つらつらととりとめのないことを書いてしまいました。
本の感想から100億光年離れた文章になってしまいました。
ごめんなさい。
決して本にケチつけてるわけじゃありません。