実は息子がいます

uiui2008-06-06



ほんとは「息子」だなんて言っちゃいけない。
彼には、ちゃんとお母さんがいるから。
お父さんは、家族を捨てて、どこかへ行ってしまった。
エルサルバドルに住む6歳の男の子。
笑顔のかわいい子だよ。  



こちらの名前や顔を伝えても、住所や電話番号・アドレスは教えちゃいけない。
手紙も現地の事務局宛に送り、その後本人に渡される。
会いにいっても良いけど、その男の子に関わる期間が終了したら、もう会うことも許されない。
定型封筒にはいるくらいの質素な贈り物(文具やシール)以外は贈ってはいけない。




私は、子どもが好き。
他人の子どもも含めて。
乳幼児のかわいさだけでなく、宇宙人みたいなところも、ナイフのような残酷さも含めて。
今、社会を支えながら、我が物顔で理屈をこねている大人全てが、昔は子どもだった。
食べたことのない料理を作ることができないのと同じように、Happyを知らないで育った子は、自らHappyを造りだし、そして人に与えることは難しいのではないかと思う。
みんなと共有できるHappyは、教科書や大人に怒鳴られるという方法では、理解できない。
実体験によってのみ刷りこまれていく。
Happyにもいろんな種類があるけど、Happyを知らない大人が社会を動かすのは危険だなあ。
Happyを築く尊さと、Happyを壊す時の代償を知らない大人は、怖い。





遊びや仲間の存在によって「Happyを知る」という部分において、いくつかの団体で直接的・間接的に子どもたちに関わってきた。
そして、今、もう少しなにか出来ることはないかなと考えたんだよ。




その団体は、貧困から子どもたちを救うことを目的としている特定非営利活動法人
世界各地の必要と思われるところにプロジェクトを組み、最終的に援助された地域が、自分たちの力で生活や文化を守っていけるようにすることを目標としている。
単に、お金や物資を提供し続けることが、結果的に自立を阻むことをこの団体は学んできた。
だから、プロジェクトが提供するのは、未来への展望だ。
1つのプロジェクトを惰性で延々と続けることもしないようだ。





私のような「スポンサー」は、月々4,500円を払って、選ばれた1人のチャイルドを支援する。
ここで親心のようなものが発生するんだね。
この親心は、最初から意図してか、結果的にそうなったのかは分からないけど、スポンサーを募るには、効果的だと思う。
だけど、このお金は、直接、そのチャイルドに手渡されるのではなくて、その子が将来生きていく力をつけていくための教育環境・衛生環境・リーダーシップなどの可能性のアップ・・・に使われる。
そのチャイルドの支援は、結果的に地域プロジェクトの支援になる。





ひょっとしたら、親心を利用されていると感じる人がいるかもしれない。
でも、私自身は、それでいいと思う。
住む地域が元気になることは、その子が、一番Happyになれることだと思うから。




自分の子どもたちにとてもお金がかかるこの時期に、しかも、立場的に許されないかもしれない状況で、わざわざそんな金銭をはたくことはないかもしれない。
だけど、私はお金持ちではないにしても、友人と食事にでかけることもできるし、服を買うこともできるし、やりたい勉強することもできる。
そのうちの1つのお金を彼のために遣う。そういう感覚。
それに、こういった支援は、自分でお金を稼ぐことができる間にしかできないし。






私は、ずっと南米(アルゼンチン)に行きたいと願っている。
彼に関わることで、私はもっと中南米のことに興味をもって勉強するだろう。
そして、いつか彼に会いにいくという目標ができた。
中米のエルサルバドルに行くついでに、パンパを越えてアルゼンチンさ。
エルサルバドルから、あと4,000kmくらいかなっ。
(気持ちは、マルコ by 母を訪ねて三千里)




そんな私の目論見も含めて、このプロジェクトへの投資のおかげで、自分のお金が金額以上の価値に変身してくれたような気がする。←娘1号が美容院でパーマをかけたいと言うと、お金を出し渋る人の価値観
自分の力がその子の成長を助け、そして、その子から学ばせてもらうことがある・・・
それは、育児に通じるから「息子」と呼んでみた。
今回だけね。1回だけね。




援助の途中で、私が死んだりしたら。
援助は打ち切ることができるけど、一応、娘たちにお願いしてある。



「その時は、よかったら、援助を続けてあげて。」



娘たちは、全く現実感なく「ふーん。いいけど・・・」と答えてくれた。