コミュニティと時間軸

あなたは、いくつのコミュニティに所属していますか?



ここでいうコミュニティとは、「なにか共通の条件をもって集う集団」「ある共通の目的や意識をもって集う集団」かな。
団体名などなくても、規則が作られていなくても、暗黙のルールで一定の高さの仲間意識を共有できていれば、コミュニティと呼んでみます。





私は、そうだなあ・・・
1,2,3,4,5,6,・・・・






数えても意味ないね。
数が問題じゃないもの。





私の場合、自ら改めて門戸を叩いて入ったものより、気がついたらそこにいて、心地よいという場の方が多いような気がする。
コミュニティに依存する人もいるかもしれないけれど、メンバーに自立心があった方が、コミュニティ自体は成長していくんだろなあ。
成長する団体では、所属している人はみんな、ある意味、独り。
コミュニティが人を包括するんじゃなくて、メンバーたちが柱になってコミュニティに形があるかのように見せているんだよ。





先日は、1日の間に3つのコミュニティを渡り歩いた。
3つに共通したメンバーはおらず、それぞれの団体は、そこで見せている私しか知らない。
でも、自分が映っている鏡を割って、パズルの1片になった私をそれぞれの場に残してきたかというと、そんな感じはないんだよね。
1つ1つのかけらに、小さいながら私がちゃんと映っているはず。
それぞれのコミュニティの人たちは、実は私の共通項を持ち合わせているのだろうと思うと、全部のコミュニティの人を集めて、「私って、どんな人間ですか?」と聞いてみたい気もする。





フットサルのコミュニティは、老若男女・初心者経験者問わず、スポーツマンシップ満載だ。
頭と心と体を同時に動かした後で訪れるのは、とても健康な疲労


少年団(子ども会)は、子どもと同じくらいワクワク心を持った親たちがサポートしている。
子どもたちが、大人になった時に不可欠な知恵の元になる「遊び」をたくさん蓄えた親たちだ。


最後に高校の同級生のうち、地元を離れた関東に在住している者たちの集い。
これは、先日集ったあの時、初めてコミュニティになったと思う。
「同級生」というカードを持っているだけでは、ゲームはできない。
「過去」だけでは、コミュティは成立しないもの。
あの人たちと、地元から離れた場所で、カキや広島風お好み焼きつつくことがあるなんて思いもしなかったけれど(しかも在学中に一度も話したことがない人もいる)、それぞれが「独り」を持っていて、その力で未来へも動けそうに感じた。
思春期〜棺桶までになるかもしれないという長い時間軸で、自分の変遷を映してくれるコミュニティはなかなかないかも。
幹事をやらせていただいた身としては、特別なお膳立ても必要なく、とても楽だったなあ。
参加してくださった皆さん、ありがとう。






そういえば、1年の時、同じクラスだったM田くんに、





「キミ、よく授業中に寝てたよねー」







と言われた。
以前、進学校が大学受験用科目重視のため、履修させない科目があったと問題になっていた時、ひょっとして私も・・・?と思っていたけど。






ただ寝てただけだったんだ。
よかったー。(違)






私のいるコミュティが、いろんな機会や出会いをもって、自分の中で膨らんだり縮んだりして、私を固まらないようにしてくれる。
時間とともに、私の中のコミュティが進化しますように。
コミュニティを息づかせる自分でいられますように。