落語の国の精神分析

落語の国の精神分析

落語の国の精神分析

落語について語る本は多いかもしれないけれど、精神分析医という立場で、噺の登場人物や噺家の心情、背景となる文化をひも解いていく作業をしたのはこの著者だけかも。
日本にも神経科はたくさんあるけれど、「精神分析医」は30人ほどしかいないのだそうだ。



例えば、「芝浜」という噺。
アル中で働かない夫が大金を拾い、酒盛りをした揚句、寝入ってしまう。
妻はやっと起きた夫に「お金を拾ったのは夢だったのに現実だと思い込んで、あなたは酒盛りをやってしまった。大変な借金だから死ぬしかない」と言う。
そこで、夫は奮起して働き、3年後には店を構えるほどになった。
妻は告白する。
「お金を拾ったのは現実だった。でも、それがあると、あなたはダメになり、身体も壊していただろう。また人のお金を着服すると大罪だ」
「お金はすぐにお上に届けたが、拾い主が現れなかったから、ここに戻ってきた」




この中の「アル中」という精神構造、騙した妻の心境、ハッピーエンドになった時にお酒を出そうとした妻をとめた夫の気持ち・・・
と分析が入る。
これが医学の専門家とはいえ、解釈を押しつけるのでもなく、理屈っぽくなくもなくて、とてもおもしろい。




噺家によって、どのエピソードを強調するか、誰の視点に立つかも違うそうなのだけど、それについても解説する。



「らくだ」の噺では、「死」と「死体」の受け止め方がずいぶん違うことを挙げる。
札付きのワルで嫌われ者が死んだことを知り、みんな大笑い。うれしくて仕方ない様子なのだけど、いざ、その死体がやってくると、パニックになる。
「死」という事実は笑い飛ばせるのに、「死体」は怖いのだ。
その背景について。



その視点は、日本の精神文化の変遷も材料に取り入れていて、同じ根多(ネタ)でも噺家によって、ある部分を変えたり、全く削除してしまったりすることの説明にも及ぶ。
噺のマクラとして、よく使われるそうなのが、「世の中に三ぼうてものがありましてな」。
「三ぼう」とは、まず、「どろぼう」。
悪い奴だから、いくら悪く言ってもよい。
そして、「けちんぼう」。
これも嫌われているから、噺の中で悪く言ったって構わない。
それから、「つんぼう」。
耳が聞こえないから、悪口言っても大丈夫、と。
昭和30年代では、このマクラで観客は無邪気に大笑いしているそうだ。
今では、放送禁止用語だ。うっかり言ったら、SNSでやり玉かも。
その後は、この最後の下りを変更したり、お詫びを添えたりするようになっている。
でも、著者が語るのは、その背景だけではない。
「障害者」の社会での立場や周囲との関わり方、知的障害者の存在によって、自分の立ち位置を確認する無意識の行為などを自己の経験を踏まえて描いてみせる。
医学書の専門用語なんて並べず、感覚としても独特の世界だ。
なにより、著者ご自身がおもしろい。
精神分析なんてするくらいだから、冷静沈着のポーカーフェイスかと思いきや、噺の登場人物になれるくらい粗忽者(失礼!)なのだ。
忘れ物も、ものすごい。
財布も何度も失くすので、クレジットカードはどの会社が再発行にどの位期間がかかり、どのくらい審査が厳しいかも熟知している。
そんな自身についても、分析を施す。



「居残り」という言葉の語源も。
遊郭で遊んだのに、お金が払えないと、すぐにお上に付きだされるのではなく、「体で払ってもらう」つまり、働いてもらうのだそうだ。
これを「居残り」といったらしい。
そういうシステムがあるのも不思議。




立川談志のコアなファン。
彼についても語る。
著者は子どものころから、落語に親しみ、今も年に2回100名程の観客が集まる「寝床落語会」で話す噺家の視点も持っている。